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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

書く女 8

 それは、岡崎英明にとって、最後の決断のきっかけになった。
 今日は結婚記念日だったのだ。――去年までは、二人でささやかながらお祝いをして過ごしたものだ。幸恵特製のビーフシチュー。少し高価なワイン。それに、英明が会社帰りに買ってくるガーベラとカスミソウの花束。幸恵は、華やかな薔薇よりも可愛いピンクのガーベラが大好きだった。
 去年までの二人は幸せだった。それがこんな形で終わるとは、思ってもいなかった。
 今年の結婚記念日には、幸恵がいない。今年だけではない。来年も、さ来年も。彼女は、もうこの日を祝おうとは思っていないのだ。十日前に離婚届を置いて、出ていってしまった。
 英明は、まだ離婚届を提出してはいなかった。今日の日に賭けていたのだ。去年までのこの日のことを、二人で幸せだった頃のことを思い出してくれれば、幸恵も正気に戻って自分の元へ帰ってくるのではないか、と。儚い希望だった。
 今日は会社を休み、朝から家中を大掃除した。夕方にはテーブルをセッティングし、ガーベラの花束を飾った。――だが、夜になっても彼女は帰ってこなかった。英明が作った、少し焦げっぽいビーフシチューは、すっかり冷めてしまっている。
 耐えきれず家を出ると、英明は信者が布教活動をしているという噂の街角へ、幸恵を探しに行った。
 彼女は、いた。ファミレスの入り口の横で仲間たちと一緒に、若い男に何かを熱心に語りかけていた。ファミレスの駐車場の街灯に照らされ、幸恵の真剣な表情はよく見えた。
 そういえば彼女は何事にも真剣に取り組む生真面目な女だったな、と、英明はぼんやりと思い出していた。
 真剣な恋愛をし、真剣に主婦業に取り組み、真剣に母親になろうとしていた。そして、母親になれなかったあとは真剣にその理由を探していた。――子供をなくしたあとの俺は、仕事に逃げてばかりいたというのに。
 その結果がこれなのであろうか? 彼女と向き合うことから逃げ続けてきた報いが。
 一人きりで過ごす結婚記念日。いや、彼女にとっては、もう記念日ですらない。あの表情が告げている。彼女の世界に、もう英明は存在していないのだと。
 自問している英明に気づかないまま、幸恵たちはダンボールで内側から目隠ししているワゴン車に男を乗せると、そのまま走り去っていった。

 翌日、ひどい二日酔いの状態で目が覚めると、もう昼過ぎだった。
 部屋の中も、英明の精神状態に劣らずひどい状態だった。シンクにぶちまけられ、乾いてこびりついているビーフシチュー。床に叩きつけられ、踏み潰されたガーベラ。粉々に砕けているペアのワイングラス。
 あまりの惨状に、英明の口からは笑いがこぼれた。その声はだんだん大きくなり、しまいには腹を抱えての大笑いとなった。
 笑い疲れて目尻に溜まった涙を拭うと、英明は椅子にどしんと座り、テーブルの空いているスペースに離婚届をひろげ、自分の名前を殴り書きした。

 夜、英明はバーの片隅でグラスを傾けていた。
 五十年配の落ち着いた風貌のマスターが一人で切り盛りしている、カウンターとテーブル席が二つだけの小さなバー。そこの奥のテーブルで、入り口やカウンターに背を向けて、英明はバーボンを飲んでいた。誰にも、マスターからさえも話しかけられたくなかった。客は、他に若い女がカウンターに一人いるだけだった。時おりドアが開いたり閉まったりしたようだが、英明はまったく気にとめていなかった。
 幸恵と暮らした家にいるのが辛くて外に飲みにきたのに、結局幸恵とよくデートしたこの店にきてしまうとは。未練がましい自分を、英明は心の中で嗤った。
 離婚届は、ジャケットのポケットの中だった。持って家を出たものの、役所が休みだったのだ。提出できずに済んだことでほっとしている自分がいることを、英明は悲しい気持ちで認めた。
 低くスタンダードジャズが流れる中、マスターの氷を削る音とシェーカーを振る音だけが、時おり響いた。もう一人の客は、結構ペースが速いらしい。
 英明も、ボトルをテーブルに置き、自分で作っては速いペースで飲み干していた。しかし、心地よい酔いはやってこなかった。
 幸恵の両親からは、早く離婚してやってほしい、それがあの娘にとっての幸せなのだからと、さんざん言われていた。彼らも幸恵の説得で、信者になっていたのだ。
 あの頃――子供をなくした頃、医者も親戚も、早く次の子供を作ることだと、能天気なことを言っていた。人の気も知らないで。待ちに待っていた子供だったのだ。すぐに次の子供なんて、作る気分になれるわけがない。
 だが、俺に彼らを責める資格なんて、ない。俺だって、幸恵の気持ちなど考えていなかった。自分の辛さを乗り越えるのが精一杯で、幸恵を思い遣ることさえ忘れていた。あげく、新しい友達ができたと聞いて、ほっとしていた。その友達が、どんな人間なのか確かめようともせずに。
 俺たちは、二人共通の悲しみを共に乗り越えることができなかった。二人の間にあった甘い何かは、子供の死によって失われてしまったのだろう。恋は終わり愛は残らなかった、ということなのかもしれない。
「……私もね、失恋しちゃったの」
 何の話の続きなのか、カウンターの女がマスターにぽつりと言ったのが聞こえた。
「時が、いつかいい思い出にしてくれますよ」
 低い声でマスターが言っているのが聞こえる。
 時が、いつか幸恵のこともいい思い出に変えてくれるだろうか。子供が死に、宗教に走った彼女のことを。そうなってくれればいい。だけど、時は今すぐには俺を救ってくれない。
 自己憐憫と自己嫌悪の入り混じったこの苦い気持ちを、素面ではとても耐えられそうになく、英明はまた琥珀色の液体を飲み干した。ボトルの中は、既に半分以上空になっている。
 ふと、カウンターの女も自分と同じような気持ちなのかもしれないと思った。真っ黒なストレートの髪、生真面目な雰囲気が、若い頃の幸恵とよく似ている彼女。
 英明はマスターを呼び、小声で女にもう一杯オーダーしてやった。
 新しいグラスを前に、彼女は戸惑い、英明に警戒の目を向けた。
「おごらせてください。僕も失恋したばかりなんです」
 英明は明るい声を出したが、その目に深刻な悲しみが映っていたのかもしれない。彼女の目から警戒心が薄れ、ほっとした表情でグラスを手に取った。
「お隣に座ってもかまいませんか?」
 英明は、自分のグラスを持つと、彼女の横に座った。なんとなくグラスをカチリとあわせて、二人は微笑んだ。
 失恋記念に乾杯、か。
 英明は、自嘲的に小声で呟いた。少しだけ、酔いがまわってきたような気がした。



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